2012年6月22日金曜日

― マシンガンと蜂 ―                  青山茂根




 竹岡一郎氏の句集『蜂の巣マシンガン』 (ふらんす堂 2011)。

 「蜂の巣」は受動であり、「マシンガン」は能動。相反するものを己の中に持ちつつということだろうか。好みによるのだろうが、タイトルと装丁がまず心惹かれる作り。第一印象でどう捉えるかはそれぞれながら、装丁から想像されるアヴァンギャルドさよりも、安定した句が並んでいる句集と思う。このタイトル、その元となった句を超越して、本としての存在感を存分に発揮している。

  みづうみにみみさとくをり月見草  竹岡一郎

  手毬唄とも南朝の嘆きとも

 景の広がりと、所々に顔を覗かせる歴史上の素材、そしてこれらの句の頭韻の効果。作者が、「高野素十の句が好きである」、とあとがきに書いているのは、このような句に現れていると思う。みづうみの夕暮れの葦のさやぎに耳傾けつつ、みづからも「みづのあふみ」の一点として。また、手毬唄のどこか地底から湧くような響きや、少し恐ろしい歌詞も、南朝方の悲劇に合っているように。

  戦争と雁共に来たりけり
 
  香水に女の戦まばゆけれ
 
 話題になった、「トランクはヴィトン家出は雁の頃」の隣に置かれた句。しかし、この句のほうが印象に残る。「戦」の語も、べたな斡旋と見えつつ意外にこの季語に使われていないのでは。「まばゆし」は、香水壜の耀き、美人ぞろいの売り子たちの差し出すサンプルの匂い、そして香水がもっとも発達したといわれるフランスのブルボン王朝の時代、その鏡の間の景をも内包する表現になっている。それを、已然形で用いることにより、「女の戦」のあとに「こそ」が省略されている、と読み取れる。いや、「香水に」の後だろうか、そんなことを読者に考え迷わせる句でもある。裏側の醜さもほのめかしつつ。どちらに「こそ」を付けるととるか、それは読み手のそれまでの人生経験によるのかも?

  枯園や跪拝久しきアラブ人

 同じ「鷹」に句を発表していた飯島晴子の句をテクストとして呼び出しつつ、その宗教的行動への関心を描く句。宗教的なモチーフは以下にあげる他の句にも散見されるのだが、この句はその白いアラブ服を惜しげなく地へ投げ出す彼らの行動と景の取り合わせが気にかかる句。ただ、彼ら故郷の砂漠に似た景として、「枯園」に意味を持たせない読みとしておきたいところだ。

  きのふ巫女けふは金魚を売りにけり

  色白の子の泣いてゐる飼屋かな
 
 薄暗い飼屋。ぼうっと浮かぶ子の顔。雨のように、蚕が桑の葉を食む音が降ってくる中で、一人泣く姿。少しグロテスクな蚕の容姿も、無感情なせわしない音に紛らわされて、むしろ慰めに。白は柔らかな蚕の色でもある。すぐそばに飼屋のある日常への郷愁。

  甘藍や遠き野に立つ馬百頭

  百済への航路さへぎる海市なり
  
  初夢の死者玲瓏と謡ひけり

  一舟に向日葵の束積まれあり

  聖典の挿絵の悪魔胡桃割る

  房州の蛸這つてゐる鉄路かな


  初夢や無辺の河を徒渡(かちわたり)

  冬眠のものの夢凝る虚空かな

 ときに異空間を現出させる景。宗教的なモチーフ、とさきほど述べたのだが、以下の句に見られるように、実はキリスト教の原罪の意識がどこかに隠れているようにも思う。作者自身が信仰を持っているかどうかは全く存じ上げないのだが。様々な背後の物語を感じさせつつ、衒学的にならない句群。  


  使徒像のガラスの眼鳥交る 

  息白き少年打つも打たるるも
 
  朝顔を百も咲かせて山師たり

 後に裏切ったり遁走してしまう使徒たちの眼は、何も映していない。季語の取り合わせが、実景としても、原罪意識としても巧み。そういった像の周りには、無数の鳩が。
 鞭打ちという欧米で一時期まで躾として行われていた罰としても、座禅の景でも、また少年同士の秘密の儀式ととってもよいのだが、その白さに、周囲の張り詰めた空気が伝わる。打つ側の罪の意識も、と。
 朝顔を見るなんとはなしの後ろめたさを、「山師」という語を取り合わせて表現する面白さ。空とぼけた飄逸さも。しかし、その花の美しい咲きぶりが、むしろ際立つ作りとなっている。 江戸期の変わり咲き朝顔のニュアンスも含んで。

 マシンガンは、撃った後の銃身の反動の強さも相当なものだろう。カヴァ-に隠れた扉に蜂が。先日の週刊俳句での『比良坂變』はよりマシンガン的な、力を感じる連作だった。硝煙の匂いの。




0 件のコメント:

コメントを投稿