2011年6月17日金曜日

 ― 難破した猫も ―

 海綿状の生物にでもなってしまったような日々が続いて、被災したわけでもないのに、沸き起こった無力感と罪悪感にぼーっとしていた。どこかから喝が飛んできそうだが、きっと、そんな人が多かったのだと思う。ふと、手にした古い一冊の写真集は、モノクロの写真と、その場所についての文章が交互に綴られていて、海綿を満たす水のように、様々な報道で疲れた脳裏にじわじわと浸み込んでいくものがあった。

 そのときに思い出したのは、窪田空穂先生がかつて大和に旅してここに立ち寄られ、立派な歌を残しておられたことである。(中略)

 浄見原宮の帝の勅もちて立てし御堂の三つ立てる見つ

 これを表装して床の間にかけ、前に座って眺めていると、私の頭の中には明らかに当麻寺の景がうかび出て来る。
                 (『日本の寺』 「当麻寺の記憶」水原秋桜子 より)

 隆起なくして庭すれすれの石はまだ他にもある。七、五、三の七の5の両側の2である。これも石の数に入れないとすれば、竜安寺の石は3:2:3:2:2となる。目を移して石組にリズムの感ぜられるのはこの数の関係から来るのであろう。

 それに、私は携えて行った縮図に物指をあてがって見た。五つの石群は二つの不等辺三角形をなしているが、五つの石群の距離を左からa・b・c・dとしてあらわすと、a/b=d/cという等値式がなり立つ。石組の配置の美しさはこの数の関係から来るのであろう。
                 (同上 「西芳寺 竜安寺」 山口誓子)

 『日本の寺』撮影・土門拳・藤本四八・入江泰吉・渡辺義雄・佐藤辰三:二川幸夫 美術出版社 昭和44年。目次から<法隆寺・薬師寺・東大寺・唐招提寺・当麻寺・室生寺・平等院・中尊寺・浄瑠璃時・神護寺 高山寺・建長寺 円覚寺・西芳寺 竜安寺・金閣寺 銀閣寺・大徳寺>の写真に、それぞれ先に揚げた水原秋桜子・山口誓子や、井上靖、野間宏、吉井勇、中野重治、佐多稲子などの文章が添えられている。カラーの写真も各寺に一枚ずつ添えられているのだが、なんといってもモノクロの物言わぬ力に圧倒されてしまう。日本人というか、日本に居住している人なら、8割方の寺に一度は、恋人との旅や修学旅行のほんの30分であろうとも、足を運んでいるレベルの有名な寺ばかり。だが、その写し撮られた風景は、ああ、ここ知ってる、という訳知り顔を次のページではっとさせるような、様々なある細部の切り取りが並ぶ。90%シルエットとして捕らえられた法隆寺五重塔の相輪、東大寺大仏殿前の銅灯籠に火の入った夕景、高山寺文覚墓跡の礎盤の溝が切り込まれた石のアップ、大徳寺孤蓬庵門前の石橋を股座から見上げたようなショットなど。カラーの美しさに打たれたのは参道の苔(西芳寺)という、その塀の白さと樹木の陰のコントラストの一枚だった。仏像と寺など建造物の写真は、思いもかけずこういうときの癒しになるのだと改めて感じ入る。自分でその地へ足を運ぶのがベストだが、現代ならそのまわりの無秩序さや猥雑さが目に入らない行程はありえない。過敏になっている神経に、旅先でのちょっとした不都合や人との関わりがいつもより痛手となって響くこともあって。ずしりとした、大きな版型の本だが、紙媒体で残す、ということを考えさせられた一冊だった。なんだかぼんやりしていて、という方にお勧め。最後に、猫好きなら見逃せない一文を。

 あらしのあとの由比ガ浜の砂の中から、そのころのシナから船が運んで来た宋の青磁の破片が今でもおびただしく輝き出ることや、横浜の金沢区に三艘(サンゾウ)と言う名の唐船が三艘来た場所の地名が残り、昔、宋の船が来たころに、渡って来た猫が「かねざわ猫」と名付けられて、現代のシャム猫のように珍重された話など、六世紀も七世紀も昔の古いことだから面白いのである。 
                  (同上 「山内雑感」 大佛次郎)




  まなうらの都市蟻塚は流されず      青山茂根



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