2011年4月8日金曜日

 ― うろくづと海 ―



 歌人である高木佳子氏の個人誌『壜 #02』から。


  すきとほるうつはにみづは充ちてゐて泡のひとつのひかりしろがね    高木佳子


  いちまいの花びら咬みて小鳥あそびそのはなびらのあまたなる傷


 「こゑ」9首から。シンプルながら瀟洒な作りの個人誌。なかなか俳句では見かけない気がするのは私が知らないだけだろうか。表記の美しさと、調べのなめらかさに和む。地震の前に発刊準備が進められていたという、次は「poule au pot 鶏のポトフ」10首。ポトフの作り方を歌の調べに載せつつ展開していく世界。


  鶏はおお、雌鶏だった、藁のうへたまごを想つてゐるはずだつた


  にんじんは芦毛の馬が駆けるときひづめの音を聴くはずだつた


 予定調和ではあり得ない世界の悲しみが浮かび上がり、静かな言葉の裏にほんの少し覗くシュールな現実。311、を過ぎた今読むと、様々な思いが「鶏」や、「たまご」や、「にんじん」、「馬」といった言葉に付随してしまう。意図せずにして詠まれた歌であるのに、ページをめくるとき読んでいる我々の周りには被災地の現実はないのに。得られた情報によって言葉も、いかに痛手を負っているか。ただ読み手の頭の中でのみ起きていることかもしれないけれど。


 実際にいわき市在住で、被災されライフライン復旧後も、日々屋内退避圏に近い地で事故の推移を見つめている著者の言葉が、別紙にて添えられている。その、「見よ」7首のうちから一首。


  うろくづはまなこ見開きいつの日かわれらが立ちて歩むまでを 見よ


 巻末の一首。共感と愛惜と。その海を臨む丘の景色。自分が幼い頃に見ていた海はいま。


  海を見にゆかないのですか ゆふぐれを搬び了へたる貨車がさういふ      


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