2010年5月12日水曜日

観劇録(5)国立文楽劇場『妹背山女庭訓』(後)

国立文楽劇場4月公演、通し狂言『妹背山女庭訓』の昼の部のクライマックス「山の段」を観終わって、全力疾走したあとのような高揚と疲れを感じていた。
しかし、都合上いちにちで昼夜両公演を観ることになっており、夜の部開始までは一時間もない。
劇場近くの店で腹ごしらえをしつつぼんやり余韻に浸っていると、たこ焼きの表面を、マヨネーズと葱がからまって滑り落ちてゆく。

今回の上演は、原作本来の構成とは少し順序が入れ替えられている。
昼の部は、蘇我入鹿によるクーデターから、その犠牲者としての雛鳥、久我之助の悲劇という、いわば物語りの本筋が描かれたのだった。

藤原鎌足、淡海親子を中心とする天智天皇方は、超人的な能力をもつ入鹿に手を出すことができない。
入鹿の弱点を突くために必要な二つのアイテム。
それらを天智天皇方が手に入れるまでの経緯を描くのが、夜の部の内容である。

入鹿には「爪黒の鹿の生き血」と「嫉妬に狂った女の生き血」を注いだ笛の音を聞くと惑乱するという、わけのわからない弱点がある。

ひとつめのアイテム「爪黒の鹿の生き血」をめぐって、猟師芝六が活躍するのが、夜の部の前半である。
この一連は、あまりにも陰惨だからだろうか、通し上演以外で演じられることは少ない。

かつて、春日大社の神鹿を殺すと「石子詰め」という残虐な刑に処せられたというのは有名で、たとえば「鹿政談」という落語にもなっている。

鎌足の家臣である猟師芝六が息子の三作とともに、爪黒の鹿を殺す場面から夜の部がはじまる。
場面が替わって、彼の住む山家となる。
そこには、御殿を追われ、失明してしまった天智天皇と、重臣、女官たちが匿われている。
芝六のもとへやってきた借金取りの証文を、大納言が和歌として読もうとするというような滑稽な演出もある。
この場面の、天智天皇が粗末な山家に起居するという趣向は、百人一首の冒頭の一首ともなっている天智天皇の御製にちなむものであろう。
幕切れの詞章には「御目もまさに秋の田の刈穂の庵の仮御殿・・・」とあり、御製の一節に天皇の視力が戻ったことが掛けられている。

さて、芝六の身替わりに石子詰の刑に処せられるところだった三作は奇跡によって助かる。
一方で、その幼い弟杉松は、鎌足および天智天皇への忠義を示すため芝六に殺されてしまう。

前編でも述べたとおり、忠義のために自らの息子を犠牲にするというのは、時代物浄瑠璃の常套的なテーマと言える。
これは、家族を犠牲にしてまでも立てる忠義の崇高さを描こうとするものだと、かつては思っていた。
しかし、今では、大切な家族を犠牲にしなくてはいけない悲しみをこそ描こうとしているのだと理解している。
忠義とは、個人の意志ではいかんともしがたい、天災のようなものなのである。

「芝六忠義」と称せられるこの段が、ことに陰惨に感じられるのは、親に殺されるのが、物心つくかつかないかの幼子だからかもしれない。
たとえば「寺小屋」の小太郎は、自分の運命を受け入れて立派に死んだと語られるが、この段の杉松は何もわからないまま、寝入っているところを父に刺殺されるのである。

 *

夜の部の後半は、杉酒屋の娘お三輪を主役とした物語であり、この『妹背山女庭訓』のなかでも頻繁に上演される部分である。

お三輪が最初に登場するシーン、可憐ではあるが、やや過度なほど子どもっぽく見える。
おそらく、終盤とのギャップを狙った、人形遣い桐竹勘十郎の演技プランによるものだろう。
また、子供だからこそ、大人の女性のようなつつしみを持たず、欲望に忠実に、恋しい男をなりふり構わず追いかけるというのが、お三輪という役の性根でもあるだろう。

さて今回の上演では、物語の大団円までは描かれず、お三輪が殺害されるところで終わる。
お三輪が犠牲によって、入鹿誅殺のために必要な二つめのアイテム「嫉妬に狂った女の生き血」が、天智天皇方の手に入ることになる。
爪黒の鹿、嫉妬に狂った女、これらのアイテムが、物語を動かすため恣意的に設定されたものであることは明らかだろう。

さて、お三輪は恋する烏帽子折の求馬(実ハ藤原淡海)を追って入鹿の金殿へと到着するのだが、求馬に遭うことは出来ない。
そして官女たちから執拗にいたぶられ、恨みと嫉妬に狂乱した挙句、鎌足方の家臣である鱶七という男に突然殺害される。

この「金殿の場」をつとめる大夫は、豊竹嶋大夫。現在これ以上望むことの出来ない配役であろう。

昼の部の「山の段」や、夜の部の「道行恋苧環」など、複数の大夫が、主な登場人物を演じ分ける場面もあるが、ひとつの場面を一人の大夫が語るのが一般的である。
文楽の大夫が使う見台(床本(台本)を置くための台)は、非常に立派な漆塗りのものである。
通常は黒塗りに金蒔絵を施したものを使うが、この「金殿の場」のように、女性が主役となる場では朱塗りの見台を使うことになっている。
この朱塗りの見台が最も似合う切場語りが、豊竹嶋大夫である。
切場語りとは、切と呼ばれる重要な場面を任される最高格の大夫のことである。

文楽大夫の第一人者、竹本住大夫の芸が、よく乾いた木材のように、堅牢でゆるぎなく、それでいてかろやかな自在さをもつものだとすると、嶋大夫の芸は、濃厚さと清澄さをあわせもった吟醸酒のようなものだろう。つややかにして流麗で、心地よくゆらぐ。そして、時にどろりとした妖艶さをも醸しだす。

お三輪は、その可憐さを失う暇もなく嫉妬に身を焦がし、理不尽な刃に貫かれて憤怒する。
しかし、刃の主鱶七は、お三輪に「あっぱれ高家の北の方」と声をかけ、その功を讃えるのである。

お三輪のジェットコースターのような運命を縦糸に、劫火のような恋情を横糸に、嶋大夫が色とりどりの美声で織り上げる鮮やかな地獄絵。
その、一瞬で消え去ってしまう圧倒的な輝きを思うと、いまも胸奥がぞくりと疼くのである。

ゆふざくら大夫床本ささげもつ   中村安伸

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