2010年5月30日日曜日

haiku&me特別企画のお知らせ(8)

Twitter読書会『新撰21』 
第八回「中本真人+林誠司」

「haiku&me」主催のTwitter読書会『新撰21』は前回で三分の一が終了し、次回が第八回となります。
※Twitterについての詳細はこちらをご覧下さい。

この企画は『セレクション俳人 プラス 新撰21』より、各回一人ずつの作家と小論をとりあげ、鑑賞、批評を行うものです。全21回を予定しており、原則として隔週開催いたします。

第八回は中本真人さんの作品「庭燎」と、林誠司さんの小論「季節への肉薄」を取り上げます。

「haiku&me」のレギュラー執筆者が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)

また、Twitterに登録していない方でも、傍聴可能です。(傍聴といっても文字を眺めるだけですが。)

■第八回開催日時:2010/6/5(土)22時より24時頃まで

■参加者: 
haiku&meレギュラー執筆者
+
どなたでもご参加いただけます。

■ご参加方法:
(1)ご発言される場合
Twitter上で、ご自分のアカウントからご発言ください。
ご発言時は、文頭に以下の文字列をご入力ください。(これはハッシュタグと呼ばれるもので、発言を検索するためのキーワードとなります。)
#shinsen21
※ハッシュタグはすべて半角でご入力ください。また、ハッシュタグと本文との間に半角のスペースを入力してください。

なお、Twitterアカウントをお持ちでない方はこちらからTwitterにご登録ください。(無料、紹介等も不要です。)

(2)傍聴のみの場合
こちらをご覧下さい。

■事前のご発言のお願い
(1)読書会開催中にご参加いただけない方は、事前にTwitter上で評などをご発言いただければと思います。

(2)ご参加可能な方も、できるだけ事前に評などを書き込んでいただき、開催中は議論を中心に出来ればと思います。

(3)いずれの場合もタグは#shinsen21をご使用ください。終了後の感想なども、こちらのタグを使用してご発言ください。

■お問い合わせ:
中村(yasnakam@gmail.com)まで、お願いいたします。

■参考情報ほか:
・第一回読書会のまとめ
・第二回読書会のまとめ
・第三回読書会のまとめ
・第四回読書会のまとめ
・第五回読書会のまとめ
・第六回読書会のまとめ
・第七回読書会のまとめ

新撰21情報(邑書林)

・『新撰21』のご購入はこちらから

2010年5月28日金曜日

 ― ながいながい戦後 ―



   物憂さの白夜の靴を脱がぬまま       青山茂根
  

 ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』は、その劇中の歌たちとともに多くの人々の記憶に残る傑作だろう。子供から大人まで、ミュージカルの楽しさをこの映画から覚えた(あるいは『ウエスト・サイド物語』か)とか、とりあえず翻訳された「ドレミの歌」なら知っているはず。しかし、この映画が、忍び寄るナチス・ドイツの足音を描いた作品だということは、皆、忘れてしまっている。

 『芸術新潮』六月号の、特集「ルーシー・リーに会いたい」の頁をめくっていたら、ふとその映画を思い出した。子供時代のルーシー・リーが、二人の兄とオーストリアの民族衣装を身に着けてポーズをとっている写真に。そう、この衣装、『サウンド・オブ・ミュージック』の中で、確かコンクールに出場する子供たちが身に着けていたものと同じ、大佐のジャケットもこの民族衣装からのデザインのものがたびたび登場したと思う。もう一度見返したわけではないので、細かくは記憶違いかもしれない。しかし、ルーシー・リー自身も、ウィーンに生まれ、ナチス・ドイツのオーストリア併合から逃れて、イギリスへ渡ったのだ。イギリスへ渡らなければ、彼女の命も危うかったが、あの作風が生み出されることもなかっただろう。

 そして、今年見た映画『アイガー北壁』も、ナチス・ドイツのオーストリア併合直前の市民を描いている。ドイツによる、初登頂への奨励がなければ、彼らは危険を冒してまでそのとき山へ登らなかった。この映画、今年の傑作の一つ。以前の広渡敬雄さんの「マッターホルン」の記事を読まれてから、映画を見ることをお勧めしたい。客観的描写に徹した映像表現に、広渡さんの書かれた(山自体は違うものの)実際に踏破したものの実感が蘇ってきて、苦しくなってくるほどだ。

 見かけは平和な、日々の暮らしの中では、気にとめることもないが、世界は未だ長い長い戦後の中だ。いつしか新たな戦前へとすり替わる予兆をはらみつつ。



2010年5月24日月曜日

「俳句」6月号

「俳句」6月号の特集「座談会 若手俳人の季語意識ー季語の恩寵と呪縛」に参加しました。
鴇田智哉、関悦史、大谷弘至、私の四人で、実作の面から話しています。各人の季語観の違いがこうも出るものかと、やってみておもしろかったです。でもその違いも、俳句の黄金時代から遠くはなれた今、遅れてきた者として、俳句を、季語をどう詠むかという共通の認識の上での各々のストラグルだと確認できたので、もしも次の機会があれば、殴り合いができるでしょう。同じ土俵にのってないと、できませんから。

ちなみに、前の5月号の特集は「吟行は、いのちを捉えて即座に詠む」
次の7月号は「先人たちに学ぶ俳句の〈個性〉」で子規とか虚子とか。。。
という、70代がメインの読者層の雑誌で、今月号は大丈夫か。赤字覚悟……じゃなくて、画期的な特集ではないかと。ご一読くださると幸いです。

座談会用自選20句から、夏の句を。

うたごゑを口がうたへば孑孑も  鴇田智哉
蚯蚓ゐる近くにフライドチキンの骨  関 悦史
眠たげな鹿の子を神は使はせし  大谷弘至
ガーベラ挿すコロナビールの空壜に  榮 猿丸

2010年5月21日金曜日

 ― GON ―


 「ごんぎつね」の話を、皆覚えているもので、知らない間に何か贈り物が置かれていたりすると、ついその名が口をついて出る。Twitterの中で、私だけでなく他の人も別の話でそうつぶやいているのを見て、少し驚いた。それだけ、記憶に残る話なのか。すっかり忘れていたが、どのようなストーリーであったか、おぼろげながらだが次第にはっきりと蘇ってくる。

 俳句をやっている人の中にも、宮沢賢治のファンは多いらしく、その話題は時折見かけるのだが、新美南吉の話はなかなか出ない。地味な、農村を題材にした、あまり舞台設定に変化のない話が多いためか。どちらかといえば、私は新美南吉や小川未明の童話のほうが好みで、あまり宮沢賢治を手に取ることがないが、それはきっと現在では少数派なのだろう。「おじいさんのランプ」は確か教科書に載っていたか何かで、やはり皆が知っている話だが、吊るしたランプを割るシーンの哀しみは、その向こうの夜空を想起させて印象深い。「ごんごろ鐘」の中の、白椿の花の描写、ふいご、「和太郎さんと牛」のお母さんが目を悪くしたのは田草取りのためであったこと、昔はこの田草取りの折に稲の葉先で目をやられる人が多かったとは何かの歳時記で読んだ。「牛をつないだつばきの木」の話は主人公の出征で終わるのだが、その時代の口調でありつつも礼賛も美化もしない、ただ運命をそのままに受け止めている静かな語り口だ。「耳」は、もっと象徴的に終わる。その後の日本の有り様を、暗示しているように。季節の描写があちこちに出てくるのも、俳句を始めてから読み返して気づく。実は東京外国語学校(現在の東京外語大)で、英米文学を学んでいたというのが、その残された創作から全く感じられないのがむしろ興味深い。外国の物語を吸収した上で、純粋に風土に根ざした童話を書き、しかしそこには、確かな日々の暮らしの機微の描写がある。年月を経て、「ごんぎつね」は、「LE PETIT RENARD GON」という題で、フランスで出版されているそうだ。向こうの子供達の眼には、この話はどのように映るのだろう。

   籐椅子の陰に泣き疲れて眠る      青山茂根

2010年5月17日月曜日

haiku&me特別企画のお知らせ(7)

Twitter読書会『新撰21』 
第七回「神野紗希+江渡華子」

「haiku&me」主催のTwitter読書会『新撰21』、第七回のお知らせです。
※Twitterについての詳細はこちらをご覧下さい。

この企画は『セレクション俳人 プラス 新撰21』より、各回一人ずつの作家と小論をとりあげ、鑑賞、批評を行うものです。全21回を予定しており、原則として隔週開催いたします。

第七回は神野紗希さんの作品「誰かの故郷」と、江渡華子さんの小論「違和感という魅力」を取り上げます。

「haiku&me」のレギュラー執筆者が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)

また、Twitterに登録していない方でも、傍聴可能です。(傍聴といっても文字を眺めるだけですが。)

■第七回開催日時:2010/5/22(土)22時より24時頃まで

■参加者: 
haiku&meレギュラー執筆者
+
どなたでもご参加いただけます。

■ご参加方法:
(1)ご発言される場合
Twitter上で、ご自分のアカウントからご発言ください。
ご発言時は、文頭に以下の文字列をご入力ください。(これはハッシュタグと呼ばれるもので、発言を検索するためのキーワードとなります。)
#shinsen21
※ハッシュタグはすべて半角でご入力ください。また、ハッシュタグと本文との間に半角のスペースを入力してください。

なお、Twitterアカウントをお持ちでない方はこちらからTwitterにご登録ください。(無料、紹介等も不要です。)

(2)傍聴のみの場合
こちらをご覧下さい。

■事前のご発言のお願い
(1)読書会開催中にご参加いただけない方は、事前にTwitter上で評などをご発言いただければと思います。

(2)ご参加可能な方も、できるだけ事前に評などを書き込んでいただき、開催中は議論を中心に出来ればと思います。

(3)いずれの場合もタグは#shinsen21をご使用ください。終了後の感想なども、こちらのタグを使用してご発言ください。

■お問い合わせ:
中村(yasnakam@gmail.com)まで、お願いいたします。

■参考情報ほか:
・第一回読書会のまとめ
・第二回読書会のまとめ
・第三回読書会のまとめ
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新撰21情報(邑書林)

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2010年5月14日金曜日

 ― 掌句集 ―

  



   不夜城の響きや釣堀を閉ざし      青山茂根


 ざらりと冷たい4月は、猫の舌のように過ぎて、早すぎる真夏の太陽が少し厭わしい5月の日々が続いたが、一昨日あたりからまた少し肌寒い。緑だけの、窓の外の景色は、このくらいの気温のほうが色鮮やかに見えて、花と花の境の時期の寂しさも、形象と微妙な色調の楽しみに変わる。

 知り合いから頂いた私家版の句集は、父子の句が並んで一頁に収まったその脇に、後書きというか寄せ書きがひとつずつついている。父子の兄弟、従兄弟や、親戚といった人々が、記憶の中の父あるいは子の姿を短く載せているのだ。ときにそれは、彼らが暮らした家にまつわる思い出で、ほんの少し、その子のほうの仕事上と句会の知り合いであるに過ぎない私にも、過ぎ去った昭和の、一つの家族の肖像として、胸にせまるものがあった。百一歳になるというその父の、戦前から戦中・戦後の暮らしの軌跡が、何気ない思い出話のなかに垣間見えるようで。地道に、誠実に生きてきた有様が、一頁一頁から浮かび上がる、だが決して主張はしない。古い日本の映画を見終えたときのような、静かな充足として。

 
 

 

2010年5月12日水曜日

観劇録(5)国立文楽劇場『妹背山女庭訓』(後)

国立文楽劇場4月公演、通し狂言『妹背山女庭訓』の昼の部のクライマックス「山の段」を観終わって、全力疾走したあとのような高揚と疲れを感じていた。
しかし、都合上いちにちで昼夜両公演を観ることになっており、夜の部開始までは一時間もない。
劇場近くの店で腹ごしらえをしつつぼんやり余韻に浸っていると、たこ焼きの表面を、マヨネーズと葱がからまって滑り落ちてゆく。

今回の上演は、原作本来の構成とは少し順序が入れ替えられている。
昼の部は、蘇我入鹿によるクーデターから、その犠牲者としての雛鳥、久我之助の悲劇という、いわば物語りの本筋が描かれたのだった。

藤原鎌足、淡海親子を中心とする天智天皇方は、超人的な能力をもつ入鹿に手を出すことができない。
入鹿の弱点を突くために必要な二つのアイテム。
それらを天智天皇方が手に入れるまでの経緯を描くのが、夜の部の内容である。

入鹿には「爪黒の鹿の生き血」と「嫉妬に狂った女の生き血」を注いだ笛の音を聞くと惑乱するという、わけのわからない弱点がある。

ひとつめのアイテム「爪黒の鹿の生き血」をめぐって、猟師芝六が活躍するのが、夜の部の前半である。
この一連は、あまりにも陰惨だからだろうか、通し上演以外で演じられることは少ない。

かつて、春日大社の神鹿を殺すと「石子詰め」という残虐な刑に処せられたというのは有名で、たとえば「鹿政談」という落語にもなっている。

鎌足の家臣である猟師芝六が息子の三作とともに、爪黒の鹿を殺す場面から夜の部がはじまる。
場面が替わって、彼の住む山家となる。
そこには、御殿を追われ、失明してしまった天智天皇と、重臣、女官たちが匿われている。
芝六のもとへやってきた借金取りの証文を、大納言が和歌として読もうとするというような滑稽な演出もある。
この場面の、天智天皇が粗末な山家に起居するという趣向は、百人一首の冒頭の一首ともなっている天智天皇の御製にちなむものであろう。
幕切れの詞章には「御目もまさに秋の田の刈穂の庵の仮御殿・・・」とあり、御製の一節に天皇の視力が戻ったことが掛けられている。

さて、芝六の身替わりに石子詰の刑に処せられるところだった三作は奇跡によって助かる。
一方で、その幼い弟杉松は、鎌足および天智天皇への忠義を示すため芝六に殺されてしまう。

前編でも述べたとおり、忠義のために自らの息子を犠牲にするというのは、時代物浄瑠璃の常套的なテーマと言える。
これは、家族を犠牲にしてまでも立てる忠義の崇高さを描こうとするものだと、かつては思っていた。
しかし、今では、大切な家族を犠牲にしなくてはいけない悲しみをこそ描こうとしているのだと理解している。
忠義とは、個人の意志ではいかんともしがたい、天災のようなものなのである。

「芝六忠義」と称せられるこの段が、ことに陰惨に感じられるのは、親に殺されるのが、物心つくかつかないかの幼子だからかもしれない。
たとえば「寺小屋」の小太郎は、自分の運命を受け入れて立派に死んだと語られるが、この段の杉松は何もわからないまま、寝入っているところを父に刺殺されるのである。

 *

夜の部の後半は、杉酒屋の娘お三輪を主役とした物語であり、この『妹背山女庭訓』のなかでも頻繁に上演される部分である。

お三輪が最初に登場するシーン、可憐ではあるが、やや過度なほど子どもっぽく見える。
おそらく、終盤とのギャップを狙った、人形遣い桐竹勘十郎の演技プランによるものだろう。
また、子供だからこそ、大人の女性のようなつつしみを持たず、欲望に忠実に、恋しい男をなりふり構わず追いかけるというのが、お三輪という役の性根でもあるだろう。

さて今回の上演では、物語の大団円までは描かれず、お三輪が殺害されるところで終わる。
お三輪が犠牲によって、入鹿誅殺のために必要な二つめのアイテム「嫉妬に狂った女の生き血」が、天智天皇方の手に入ることになる。
爪黒の鹿、嫉妬に狂った女、これらのアイテムが、物語を動かすため恣意的に設定されたものであることは明らかだろう。

さて、お三輪は恋する烏帽子折の求馬(実ハ藤原淡海)を追って入鹿の金殿へと到着するのだが、求馬に遭うことは出来ない。
そして官女たちから執拗にいたぶられ、恨みと嫉妬に狂乱した挙句、鎌足方の家臣である鱶七という男に突然殺害される。

この「金殿の場」をつとめる大夫は、豊竹嶋大夫。現在これ以上望むことの出来ない配役であろう。

昼の部の「山の段」や、夜の部の「道行恋苧環」など、複数の大夫が、主な登場人物を演じ分ける場面もあるが、ひとつの場面を一人の大夫が語るのが一般的である。
文楽の大夫が使う見台(床本(台本)を置くための台)は、非常に立派な漆塗りのものである。
通常は黒塗りに金蒔絵を施したものを使うが、この「金殿の場」のように、女性が主役となる場では朱塗りの見台を使うことになっている。
この朱塗りの見台が最も似合う切場語りが、豊竹嶋大夫である。
切場語りとは、切と呼ばれる重要な場面を任される最高格の大夫のことである。

文楽大夫の第一人者、竹本住大夫の芸が、よく乾いた木材のように、堅牢でゆるぎなく、それでいてかろやかな自在さをもつものだとすると、嶋大夫の芸は、濃厚さと清澄さをあわせもった吟醸酒のようなものだろう。つややかにして流麗で、心地よくゆらぐ。そして、時にどろりとした妖艶さをも醸しだす。

お三輪は、その可憐さを失う暇もなく嫉妬に身を焦がし、理不尽な刃に貫かれて憤怒する。
しかし、刃の主鱶七は、お三輪に「あっぱれ高家の北の方」と声をかけ、その功を讃えるのである。

お三輪のジェットコースターのような運命を縦糸に、劫火のような恋情を横糸に、嶋大夫が色とりどりの美声で織り上げる鮮やかな地獄絵。
その、一瞬で消え去ってしまう圧倒的な輝きを思うと、いまも胸奥がぞくりと疼くのである。

ゆふざくら大夫床本ささげもつ   中村安伸

2010年5月7日金曜日

 ― 壜の中身 ―



  座礁せしまま緑蔭の木椅子かな   青山茂根

 遠いところから、一通の手紙が届いた。漂うように、細長い封筒で。以前私が別のところに書いた文の、記載ミスを指摘した内容の短い手紙で、読み終えてとても嬉しくなったのだった。(この場を借りてお礼申し上げます。)異国の作家の名前を、間違えて記載している、という指摘に、そういえばここではなく別のところでその作家の名を出した、と思い出した。慌てて、過去の他のページへ飛んで検索したら、やはり指摘された通りの表記をしていた。しかも二通りの表記をし、そのどちらもが間違っているという体たらくである。確か、その翻訳の書にあたらずに、ネット上の何かを引いてそのまま写してしまったような記憶がある。その国では、その作家の名は、私がカタカナで記したようには省略して呼ばれていないこと、その表記だと全くの別人になる、と教えてくれた手紙だった。あえてここではその内容を書かないが、AOYAMAをA.OYAMAと表記するようなミスである。確かにその国の人には別人としか思えないだろう。英語圏なら、多少は情報も入ってくるし見当もつかなくはないが、そこの国の言語に精通しているわけではない私は全く気がつかなかった。その言語で、その作家に関する文献を読みこなす力は元から私にはない。異国で、長く愛読され親しまれている作家の名を、その国の人々が日常会話の中でどのように語り、通常のメディアなどでどう伝えられているか、遙か離れた国からうかがい知ることは難しい。

 インターネットと俳句の関係について、時折語られるのを耳にするし、自分でも日々様々に利用している。もはやその利用以前の状態には戻れまい、とも思う。インターネットが俳句そのものを変えるわけではないだろう、だけれど、俳句にまつわるやりとり、は確実に変わった。こうして、インターネット上に載せた俳句に関する文の記載ミスについても、遠い国からその現地の情報として、返ってくる。いつどこに書いたものかとの検索も、その記録保存機能が有効に働く場合が多い。そして、過ちを指摘されることは一つ新しいことを知る喜びでもある。寄せられた異論、反論は新たな入り口かもしれない。対話は、そこから始まると思う。 それが全方位へ開かれているのがネット上であり、予測のつかない展開もある。

(今後は、プロフィール欄に連絡先を載せておきますので、何かありましたらどうぞメールでご連絡ください。私のミスで、郵便代を使わせてしまっては申し訳ないです。)

2010年5月3日月曜日

「素人」体質

下記のブログを読んで、古い角川『俳句』を引っぱりだした。

夢の帆柱「眺めて、おもう」

『俳句』平成16年1月号から17年6月号まで、18回にわたり連載された千野帽子の「先生、ここがわかりません!」。
リアルタイムでは、まったくノーマークだった。タイトルを見て「初心者向けのハウツーものか」と思ってスルーしていたのだった。

第1回目は、こんな文章から始まる。

俳句初心者には二種類ある。「素人」と「弟子」だ。

これは、師匠を持つとか持たないということではなく、「体質」だという。で、句会にハマった「素人」である千野帽子は入門書を五十冊読んだ。しかし、「弟子」体質ではない千野には俳句に関する素朴な疑問は解消せず、謎が深まるばかりだった。そうした「素人」に俳句の世界がどう見えるか、ということをストレートに書きつづっている。すべてではないけれど、かなりの部分で、ふだん僕が感じていることとダブっていて、たいへんおもしろかった。いくつか紹介したい。

第17回「俳句は「大衆化」してよかったのか」では、伊藤園の「お〜いお茶」のペットボトルや缶に印刷されている「新俳句大賞」を取り上げている。

考えてみればいかに俳句人口が多くとも、投稿している人よりも俳句を作らずにいる人間のほうが圧倒的に多いはずで、そういう人の大半は伊藤園の俳句を見てもなんとも思っていないか、ヘタすれば「つまんねー」と思ってるかもしれないのだ。俳句の世界において真に待たれるべきなのは、伊藤園の俳句を読んで「こんなのが俳句なら自分は俳句やらなくていいや」と思える感覚の持主たちなのではないか。

私は「お〜いお茶」ひとり不買運動を行っているが、それは、もちろん「新俳句大賞」を見ると落ち込むからだ。なぜかといえば、千野さんが述べているように、「こんなのが俳句なら自分は俳句やらなくていいや」と思われるのがくやしいし、なさけないからである。

それを敢えて「ふつうの感覚」の持主と呼ぶならば、俳句の世界には、伊藤園を含む投稿俳句をおもしろいと思っちゃう「特殊な感覚」の持主ばかりが大挙して押し寄せていることになる。

第12回「『新しい俳句』はほんとうに新しいか」は、次の文章ではじまる。

いくつかの句会に参加してみて気づいたことのひとつ。四十歳代の女性参加者には「ポエマー」率がひときわ高い。

これは僕も以前ミクシィの日記で少し書いたことがあるのだけれど、今は亡き「俳句朝日」で若手俳人特集を行ったことがあって、結社推薦の若手俳人数百人の俳句が三句ずつ掲載された。そのときの、アラフォー俳人たちのメルヘンチックな「詩的表現」に辟易したのを覚えている。「ポエム」なのである。70年代の少女漫画、80年代の歌謡曲、シティ・ポップスのセンスなのである。「レモン色の月」云々という句があったりして、おいおい、結社推薦なんだろう、とびっくりしたもんだった。

老主宰が彼女たちのメルヘンな俳句になんと「新しさ」を見て取って称揚しているという可能性はないのか。
(中略)
はっきりしたことは言えないがもしそうなら俳句の世界の言語感覚の一部は、ジャンルとして特殊に進化したものではなくたんに世間より「遅れている」だけなのかもしれない。
(中略)
ド素人から見れば彼女たちのポエム信仰は時間が四半世紀ほど止まっている。

これは「ポエム」だけにとどまらない気がする。たとえば、寺山修司や塚本邦雄的レトリックをまんま使用した若手の俳句が主宰クラスの俳人に受けているのを最近よく目にする。そういうのも、俳句の「素人」が見たら、ほんと恥ずかしい。俳句をやらない友人に見せられない。馬鹿にされるだけだもの。

最終回は「俳句は大衆化してよかったのか」
本文の中に、唯一ゴチック体になっている文がある。

俳句がだれにでもできてたまるものか。

これが一番言いたかったことなのだろう。つづけて

俳句人口が多いのに出版不況なのは俳句人口の大半が本来なら俳句をやらなくていいはずの「(碌な)本を読まない人たち」で占められているからである。これが俳句の「大衆化」というものの実態だ。

このあとにもっと過激なことが書いてあるのだけど、引用はやめておく。引用した文も素直に首肯しがたいのだけど、要は、先に紹介したブログの執筆者が述べている「俳句のなかだけではなく、文学のなかで輝きを放つためには、知らなきゃならないこと、考えなきゃならないこと、視野に入れなきゃいけないことがたくさんあると思う」ということなのだろう。これが、「素人」=「ふつうの感覚」の持主の率直な声なのだ。

私は師匠についているが、体質は「素人」である。で、師匠についていなくても、体質が「弟子」の人はたくさんいる。というか、「素人」体質の俳人って、ほんと少ない。

こういうこと書いて、自分の俳句載せるのって、ハードル高すぎるわ。

 みのはちのすせんまいぎあら春愁  榮 猿丸


2010年5月2日日曜日

haiku&me特別企画のお知らせ(6)

Twitter読書会『新撰21』 
第六回「外山一機+佐藤清美」

「haiku&me」主催のTwitter読書会『新撰21』も、おかげさまで第六回を迎えることとなりました。
※Twitterについての詳細はこちらをご覧下さい。

この企画は『セレクション俳人 プラス 新撰21』より、各回一人ずつの作家と小論をとりあげ、鑑賞、批評を行うものです。全21回を予定しており、原則として隔週開催いたします。

第六回は外山一機さんの作品「ぼくの小さな戦争」と、佐藤清美さんの小論「敗北者であろうとも」を取り上げます。

「haiku&me」のレギュラー執筆者が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)

また、Twitterに登録していない方でも、傍聴可能です。(傍聴といっても文字を眺めるだけですが。)

■第六回開催日時:2010/5/8(土)22時より24時頃まで

■参加者: 
haiku&meレギュラー執筆者
+
どなたでもご参加いただけます。

■ご参加方法:
(1)ご発言される場合
Twitter上で、ご自分のアカウントからご発言ください。
ご発言時は、文頭に以下の文字列をご入力ください。(これはハッシュタグと呼ばれるもので、発言を検索するためのキーワードとなります。)
#shinsen21
※ハッシュタグはすべて半角でご入力ください。また、ハッシュタグと本文との間に半角のスペースを入力してください。

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(2)傍聴のみの場合
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■事前のご発言のお願い
(1)読書会開催中にご参加いただけない方は、事前にTwitter上で評などをご発言いただければと思います。

(2)ご参加可能な方も、できるだけ事前に評などを書き込んでいただき、開催中は議論を中心に出来ればと思います。

(3)いずれの場合もタグは#shinsen21をご使用ください。終了後の感想なども、こちらのタグを使用してご発言ください。

■お問い合わせ:
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・第二回読書会のまとめ
・第三回読書会のまとめ
・第四回読書会のまとめ
・第五回読書会のまとめ

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