2010年4月14日水曜日

桜花の表情

東京の桜はほとんど葉桜となった。
桜はその散り際の潔さを褒められるけれど、散りつつある花と、力強い芽吹きの同居する葉桜の逞しさもまた面白い。
「葉桜の中の無数の空さわぐ 篠原梵」という句は、そのような葉桜の生命感を言いとめたものであろう。

言うまでもないが、桜が最も人の目を惹くのは、満開のときである。

「想像のつく夜桜を見に来たわ 池田澄子」という句があるように、例年の桜の花の記憶から、只今咲いているであろう桜の様子を類推したりするが、眼前にした実際の花は、常に想像を裏切る。

まず、その年の気候によって桜の咲き具合は異なる。
「満開」という言葉は同じでも、短期間に一斉に花をひろげた場合と、少しづつ花を咲かせていった場合とでは、花の密度が違う。
前者の、ずっしりと重みのありそうな花房を、木の全体に満遍なくつけた様子は見事で、数年に一度しか見られないものだ。
頭上を覆いつくす万朶の花を見上げていると、そのまま空の中心へ向けて落下していったとしても、花のクッションがやわらかく受け止めてくれるだろう、などと思ったりもする。

桜は赤みを帯びた白い花で、光をよく反射する。だから気候や時間帯など、光線の加減によって、その見え方が大きく変化する。

晴れた日の昼間、降り注ぐ強い光を浴びて白く輝く満開の桜は、最高の存在感を示す。
朝のうちの引き締まった空気のなかでは、桜はなにかの結晶のように清らかである。
夕桜は日の暮れてゆくにしたがって刻々とその表情を変えていくが、私が最も愛するのは、すこし日が傾いたころ、野山とともにやわらかなオレンジ色に染まりつつある桜である。
その一塊をすこし離れたところからぼんやりと眺めていると、魂がそこらをふわふわと漂ってゆくようななつかしさを感じて、陶然とさせられる。

曇り空の下では、桜はその存在感を薄れさせてしまう。
そして、輝きが弱まる分、やや赤みが強く感じられる。雨にうたれる桜には、艶然とした風情がある。

夜桜は、月や星や街の光、あるいは照明のわずかな光を吸い、うっすらとした妖気とともに吐き出している。
夜桜にも、もちろん天候の影響がある。
人工の照明のない、天然光のみに照らされた夜桜を観た経験はないので、もっぱら市中の夜桜についてだが、曇りの日には街の光が雲に反射し、花の吐きだす光が薄れてしまう。
多くの場合、桜の木の近くにもなんらかの照明があるが、それはシンプルな白い光がよく、色とりどりの雪洞や提灯などを吊って照らすのはあまり品のよくないことだと感じる。

夜桜は青山や谷中などの墓地で見るのが好きだ。
雪洞や提灯は無く、照明の具合が良いということもあるが、無数の死者の存在感が、桜の吐きだす妖気を濃密に感じさせてくれるからだろう。

満開の桜を見ると、おおげさだが、自分は桜の花を見るためだけに生きていて、残りの季節はその幻影を言葉にしているだけなのではないかと思うことがある。
光に応じて無数の表情を見せる桜の花は、自らの内面のあらゆる情感を反射し、浄化してくれるのではないか、そして、まだ観ぬ無数の花の表情を追い求めることで、あらゆる美を垣間見ることができるのではないか、そんな期待を込めて次の桜を捜す。

花万朶息を吸ふとは光を吸ふ   中村安伸

3 件のコメント:

  1. 桜は香りを醸し出すとともに色や光を放っている。その光を吸うという感覚は良く分かる。僕も過去に「春を吸ふ」という言葉を使ったことがある。
    桜を繊細な目で見、感じている作者の自然体の心を感じる。

    花万朶鯉はゆっくり泳ぎけり(田所良雄)

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  2. 田所さま

    コメントありがとうございます。

    >花万朶鯉はゆっくり泳ぎけり(田所良雄)

    庭園の景でしょうか。ゆったりと気分の良い句です。

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  3. 桂るんな(偽名)2010年5月6日 20:36

    先日はお世話になりました。
    「桜花の表情」ふと読み返しまして、改めて美しい文章だと感じ入りました。
    桜の時期は過ぎましたが、文章の向うに花盛りの桜の木が見えてくるような気がします。

    また、どこかで。

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