2010年3月4日木曜日

マッターホルン     広渡敬雄

悴みて登頂時刻のみ記せり     広渡敬雄
 
(1) ツエルマット
 年が明けて早々、NHK・BSハイビジョン「世界の名峰(グレイトサミット10)」、「世界遺産への招待」アルプスのアルプ(牧草地)・少女ハイジ&クララが放送され、20年前に登ったマッターホルンの尖峰&ゴルナー氷河、メンヒ山麓(ベルナー・オーバーラント)の広大なアルプを思い出した。
 日本山岳会の岳友4名と年号が平成と変わった1989年8月パリ経由ジュネーブ空港に降り立ち、レマン湖を巡って、マッターホルンの登山口、ツエルマット(1620米)に着いたのは、夕刻だった。
 夏のスイスの夕暮れは8時近く、しかも薄暮が長い。自動車が締め出された駅前は、馬車と電気自動車が迎える。氷河から豊かな水量の乳白色の川が、町の真中を流れており、その両岸に瀟洒なホテルが連なっていた。
 ホテルのどの窓にも赤いゼラニュームの鉢が飾られ、流石に観光立国の感がした。
 この町は、本格的な登山者、ハイカー、山岳リゾートの人達、観光者と様々な人で溢れていた。感心したのは、欧州のハイカーの姿(服装、身振り、醸し出す雰囲気等)がスマートに決まっていることだ。
 日本人のハイカーの姿はどうしても野暮ったい。国民性によるのだろうか。
 早速、山岳博物館を見学。初登攀者ウインパー愛用のピッケル、悲劇の滑落の要因となった切れたザイル等が展示され、ひしひしとこれからの厳しい登攀を実感した。             
 マッターホルンは幾多の困難な試みの末、1865年7月14日、エドワード・ウインパー他6名が、今般の我々の登山ルートと同じヘルンリ稜から初登攀に成功するも、帰路に頂上直下の肩の雪田で1名の墜落が他の3名をも巻き込み、無事下山しえたのは、3名のみという悲劇的な結末となり、魔の住む山と畏怖されたことで有名である。
 その後、より危険な困難なルートからの登攀が試みられた。
 その北壁は、アイガー、グランド・ジョラスとともに欧州アルプスの3大北壁とされ、それを征服しうるのは、先鋭的なエリート登山家とされた。(※1)
 それらの北壁をさらに冬季に単独でなしえた日本人登山家・長谷川恒夫氏は、現在でもその栄誉を当地で語り継がれているが、その後ヒマラヤ・ウルタンⅡ峰で雪崩で遭難死した。
 参考:写真①、②






















(2)ゴルナーグラード
 翌日の早朝、散歩の途中で初めて見たマッターホルンは、これまで写真で見たのとはまったく違う圧倒的な高度感で迫り、少し左に頭を傾げた独特の鋭鋒が一気に天に直立する岩峰である。
 朝日が頂上から徐々に下方へ金色に染めあげ、吸い込まれるような神々しさであり、あの山頂に立つかと思うと思わず全身が身震いした。
 まず、ツエルマットの最もポピラーなハイキングコースでの脚馴らしの意味もあり、赤い登山電車で3135米のゴルナーグラードの展望所に向かう。
 既に高度は日本No2の高峰・南アルプス北岳とほぼ同じだが、高山病の兆候も出ず安心した。
 眼前には圧倒的迫力で、アルプス第二の高峰モンテローザ(4634米)、「白銀の鞍」との美しい異称を持つリスカム(4527米)、ブライトホルン(4164米)そしてお目当てのマッターホルン(4478米)、さらにダン・ブランシュ(4357米)等々がほぼ360度に広がる絶景!
 マッターホルンは、海抜では他の岩峰には劣るものの、ドイツ語で「平地から突き出た角」の名の通り、周りの氷河から一気に1500米を突き上げる高度差は、他を圧倒する雄姿である。
 明日からあの頂上を目指すかと思うと身体が熱くなり興奮を押さえるのに困った。
 また、モンテローザ直下からのゴルナー氷河の白い眩しい大河の流れには、ただただ圧倒された。
 平成11年に上梓した第一句集『遠賀川』のあとがきに「始めたばかりの俳句でこの稀有な広大な氷河を表現しえないだろうか」と書いた心の高ぶりは、今にして思い出しても懐かしい。欧州最大の氷河はこの世のものでないオーラを発していた。

   いにしへの音秘め氷河謐かなり

 記念撮影のあと、のんびりとハイキングコースをリッフェルベルグ駅(2582米)迄下る。このコースはマッターホルンを常に正面に見つつ、アルプ(牧草地)を下る。
 途中に同峰を逆さに映す有名なリッフェルゼー(湖)を通るため、人気コースでもある。
 快晴の中、風ひとつない湖面にやや青みを帯びた逆さマッターホルンが映っていて、皆で歓声をあげた。
 牧草地の所々の岩陰から顔を覗かせる「マーモット」という草食系のネズミ目リス科の可愛い動物が時々見かける。危険を予知するとホイッスルのような警戒の鳴き声を放つ。みやげもののログマークにも多く使用される人気者だが、中世にはペストの伝染病の媒介者として恐れられた。(※2)
  参考:写真③、④、⑤、⑥




























(3)ヘルンリヒュッテ
 いよいよマッターホルンの頂上を目指す日となった。
 1620米のツエルマットからロープウェイでシェバルゼー迄上がる。ここの屋外レストランで、燦々とした陽光と爽快な山気の中、至近距離からのマッターホルンは覆いかぶさる感じである。
 8月でも風雪があると聞くと只々好天を祈るのみ!
 2時間かけて本日のベース基地ヘルンリヒュッテ(3260米)まで、マッターホルンの山懐に吸い込まれる様な径をゆっくりと登る。
 程なく、風もなくスイス国旗がだらんと垂れているヒュッテに着く。綺麗に清掃されていて気持ちが良い。
 早速、ビッヘル・メインレッドという長身の30歳くらいのガイドを紹介される。
 彼に命を託すザイルを組んでもらうわけだ。がっちり握手して、ヘルメット、ハーネス(安全ベルト)、アイゼン、カナビラの点検を受けた。後から聞く所によると、彼らガイドは、この点検時に請け負う登山者の力量を即座に判断するという。
 この時、自分が持っていたリチウム電池のライトに彼のみならず他のガイドも大変な関心を示し、マ峰登頂後に是非譲って欲しいと懇請して来た。
 普通の電池のライトとの光度の強さ、耐久性の違いを仄聞していたのだろうか。
 マ峰登頂後にもアイガーの隣のユングフラフかメンヒに登るので譲れないと告げると、残念だ!と首をすくめ無念さを手振りで示した。
 最近では、LEDライトが主流になっているのを思うと隔世の感がする。
 マ峰は午後からは必ず天候が悪化するので、未明から登攀し、昼過ぎにはヒュッテに戻らないと滑落、落石、疲労凍死、雪崩等のリスクが高い。
 標高差1218米、平均斜度39度の岩峰を、途中のポイント迄所定の時間で登り切らないとガイドは強引に降ろす。
 一緒に行った4名全員の登頂を期したが、結果的には、頂上を踏めたのは自分含め2名だけだった。
 明日は真っ暗闇な未明に岩壁登攀のスタートとなるため、夕暮れ時に視察を兼ねて取り付き地点に出かけたが、最初から15米の岩場。ガイドが誘導はしてくれるが、一応ルートを頭に叩き込んで、眠りについた。
  参考:写真⑦









(4)マッターホルン山頂
 翌朝未明4時起床、食事後同25分スタート。
 外は暗いので明るいヒュッテ内でガイドとザイルを結んだ。いよいよ登るんだ!と緊張が走る。扉を出ると、寒い! 氷点下か。
 満天の星と下弦の月のなか登り始める。
 遥か下に、ツルマットの町の明かりが鮮やかなイルミネーションのように輝く。
 まずは、4003米のソルベイ小屋までの高度差750米の登り。
 休みなく(水、食料の補給なく)3時間内で登らなくては降ろされてしまう。
 登り始めて1時間強で日の出。自分の顔に眩しい朝日が、刻々とマ峰の頂上から下に向けて岩峰を紅に照らし染める。その美しさは別世界の感もするが、岩壁に取りついていてのんびり鑑賞する余裕なんてない。

   くれなゐの朝焼け沁むる岩の肌

 小屋の直下のモズレイスラブは、狭く上からの下山者との離合時が最も危険とは言われていたが無我夢中で記憶にはない。
 とにかく水を飲みたかったが、ガイドに「NO!小屋まで我慢!」と言われ辛かった。
 滑落のリスクがあるから許さないと聞いた。
 必死な登攀の末、何とかam6:20にソルベイ小屋に着く。
 ガイドから「お前は抜群に早い!」と言われ、嬉しかった。
 頂上まで行ける!
 十分に水、食料を口にする。無事下山すると、小屋の登頂記録ノート(永久保存?)にサインが出来ると励まされる。冷気の中、遥か下に望まれる谷間のツエルマットがようやく明るくなって来た。宿泊したヘルンリ小屋もマッチ箱のようだ。
 ガイドはヘルメットも装着せず、小屋まで常に先頭立ち、勝手知ったルートをわけなく登る。
 ロープを固定してルートや手足をホールドする位置を指示し、登ってこい!と言う。
 ガイドを雇わない登山者はルート探しに時間を要して、下山時の大渋滞の要因となるため、スイスのガイド達からは悪評である。
 いよいよ核心部を経て頂上までの高度差490米。
 しばらくして有名な北壁の縁の雪田に出る。傾斜35度。
 アイゼン装着し、慎重にステップを切って登る。既に3時間以上900米近くもの岩壁登攀を続けているので、腕力、指の握力が疲労で弱まっている。
 頂上近くに7~8米の直立の岩場があり、息も乱れてきている上にグリップが弱く、折角太いロープが張られているものの、もたもたしていたら、ガイドがアイザンレンしたロープを引っ張り上げ、身体ごと持ち上げてくれて有難かった。
 無我夢中で疲れて痺れる腕を励まして攀じ登った。もう一度小さい雪田を登り切ると、頂上のマリア像が見えてきた。(これはどうか定かではない。)
 頂上だった。ガイドとがっちり握手し、抱き合った。
 彼がGood! you are good!と言ってくれた。
 こちらはthank you!と二度叫んだ。
 文字通り雲ひとつない快晴!
 フランスのモンブラン方面、これから登るベルナー・オーバーラントのアイガー、メンヒ方面、ゴルナーグラードで見た四囲の鋭鋒が見渡せる。
 眼下には雄大なゴルナー氷河、そしてツエルマットの町。
 煙草を一本吸う。
 やや遅れて同行の仲間のひとりも到着。熱い握手、抱擁、自然と目頭が熱くなった。記念撮影は仲間&ガイドと。頂上は80米くらいの長く細い岩稜で、両方ともスパット切れ落ちている、世に言うナイフエッジだ。
 ガイドが30米位先のイタリア側の頂上(山頂表示板か国境の十字架が指呼に見え、何人かの登攀者が見える)まで行くかと訊ねる。体力的にも限界に近い(下山は登り以上に神経、体力を使う)。
 苦笑しつつno thank you!と答える。
 もう二度と見ないだろう絶景に名残りを惜しみつつ15分位で頂上をあとにする。
  参考:写真⑧、⑨





















(5)下山そしてメンヒ
 下りは登りとは逆にこちらが先に下りる(ガイドはザイルでホールド)。
 雪田では怖いもの見たさに、その縁近くまで行ってかの北壁を望む。
 下から1500米の絶壁。かってここを登攀した女性登山家今井通子の偉業をひしひしと感じつつ、ソルベイ小屋に寄り、登頂記録ノートにサインをする。
 ガイドが証明のサインをしてくれ、おめでとう!と言ってくれる。
 体力的には疲労のピークに達していてきついが、心は満足感で満ち溢れている。
 さらに、慎重に慎重に岩壁を750米下りて登山基地のヘルンリヒュッテに到着。
 ザイルを外す。やった!という感激よりももう死ぬことはないという安堵感が先に出た。ガイドと固い握手をし、抱き合いお互いの背を叩きあった後に記念撮影。
 そのまま、休息もせずツエルマットまで戻る。
 夕方に着き、初登攀者ウインパーの墓に詣でる。
 そして、多くの他のマ峰登山の犠牲者の墓に深々と頭を垂れた。
 その後、登頂成功を祝して仲間達とドイツビールの乾杯を重ねて夜が更けていった。
 翌日、やや二日酔いのまま、改札口もないツエルマット駅からアイガー、メンヒの登山基地であるグリンデルワルトに向け、発車ベルもない電車が走り出す。
 広大なアルプの上のそそりたつ、アイガー北壁と氷雪のメンヒ。
 翌々日の朝、ユングフラフ氷河のクレパス(割れ目)を慎重に越え、岩壁に取りついた。
 そして、昼過ぎに氷結した雪のメンヒ山頂にアイゼンを踏み込み、ピッケルを打ち込んだ。キャンキャンという氷雪の音がいまだに耳に残る。

   ピッケル弾く万年雪や天近く

   参考:写真⑩、⑪、⑫





























(1) ※1:マッターホルン北壁初登攀 (1931年、標高差1500米)
      グランド・ジョラス 同上  (1935年 同上 1800米)
      アイガー     同上   (1938年 同上 1800米)
   話題の映画「アイガー北壁」は、3月20日より、全国一斉に上映される。
   また、新田次郎『アイガー北壁』も好書である。 

(2) ※2:マーモット:ウイキペディア(wikipedia)
  
(3)写真
写真① ツエルマットとマッターホルン
       (正面がヘルンリ稜、右側が北壁)
写真② ツエルマットのホテル、氷河からの乳白色の川
       (どのホテルのどの窓にも赤いゼラニュームの鉢が飾られている)
写真③ 朝日を浴びるマッターホルン
写真④、⑤ ゴルナーグラードの展望台から
 ④ 左:モンテローザ、中央:ゴルナー氷河、その右:リスカム
 ⑤ マッターホルン
写真⑥ リッフェルゼー(湖)の逆さマッターホルン
写真⑦ ヘルンリヒュッテとマッターホルン
写真⑧ ヘルンリ稜を登る
写真⑨ マッターホルン山頂とガイドのビッヘル・メインレッド
    後方はイタリア側山頂
写真⑩ 下山途中 雲の湧くマッターホルン山頂
写真⑪ ツエルマットのウインパー他の遭難者の墓
写真⑫ ベルナー・オーバーラントの広大なアルプ(牧草地)
    左:アイガー(北壁)、右:メンヒ  

(4)参考文献:『スイスアルプス・ハイキング案内』(小川清美著、山と渓谷社)

1 件のコメント:

  1. 広渡敬雄さんが執筆に参加された
    『能村登四郎集―脚注名句シリーズⅡ‐5』が俳人協会より刊行されています。
    能村登四郎の句と鑑賞の一冊です。その中から少し。

      唇を噛めば色出てさくら冷え
    ・・・色彩、艶までも映像化する巧みさは、「さくら冷え」を季語に用いたことによるのだろう。絵画が玄人跣だったことも影響しているのかも知れない。

      水打つて娼家のごとく夕待つ
    ・・・<夏風邪をひき色町を通りけり>橋閒石の句同様、八十歳台の登四郎が詠むと、生々しさが消え、郷愁のようなものを感じさせられる。
     
    いずれも、広渡さんの執筆記事より。

    「馬酔木」所属時代からの登四郎の句風とその変遷が感じられる本です。お知らせまで。

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