2010年1月21日木曜日

haiku&me 9, 10月の俳句鑑賞

足が出て手が出てやがてカーニバル  田島健一

たじまでございます。あけましておめでとうございま…した。
年もあらたまってしまって、なんだかいまさらなのですが、昨年の9月、10月のhaiku&meの作品について鑑賞させていただきました。
なんか、とても昔のことのようで恐縮ですが。ま、それはそれとして。


9/18
飛行機を降りて夜食の民の中      青山茂根

<違和感>、それは俳句における時間軸のなかで何かが変容する瞬間なのかも知れない。
揚句の場合、「夜食の民」ということばに何か聞きなれない響きがあり、そこに日常性から切り離された作者独自の感覚がはたらいている。
その響きはそれとなく続いて、日常的な風景を「飛行機を降り」た瞬間に変化させる。
「夜食の民」とは、飛行機から見下ろす都市の暗黒と、そこへ降り立つ作者自身との<違和感>を受け入れることによって経ち現れる作者の主体に他ならない。
この「夜食」ということばは、季語としての営みと同時に、「夜ニ食ス」ということばの表層によって、どことなく無機質で不気味な行為にも感じられてくる。
作者自身もその「夜食の民」の一員なのだ。そして最初に感じた<違和感>へ、作者の主体が再帰する。
この主体の再帰によって、事後的に私たちは<具体的な普遍>という幻想を得るのである。



9/21
蜜厚く大学芋や胡麻うごく   榮 猿丸

<物>が、もっとも手前の景色として与えられ、それが全体としての私たちの幻想を覆う。
もっとも手前にある「部分」が「全体」である、ということ、それが「イメージ」だ。
揚句の「大学芋」という言葉の、なにか重厚な、それでいて愛嬌のある印象が、この句をもっと大きな「奥」へと導いてくれるような気がする。
ポイントは、上五の「厚く」と切れ字の「や」ではないか。
異議をはさむべくもなく、この句が「部分」から「全体」へと読み手の意識を連れて行くのは「や」の切れによる効果と言ってよいだろう。
上五中七の静的なイメージから「胡麻うごく」と展開したことで、まるでそれまで止まっていた時間が、突然ゆっくりと動き出す。
そう考えると、上五の「蜜厚く(mi-tsu-a-tsu-ku)という「tsu」の小気味好いリズムが活きてくる。
なんだか、ゆっくりと動く「蜜」と「胡麻」のまわりの大きな空間がひきずられるように動き出すような気がして、気が気でない。


9/23
こほろぎを聴く図書館の設計図   中村安伸

「図書館の設計図」という文字列は、両側に「図」という角ばった文字が据えられ、いかにも硬質なコンクリートで作られた建物のような印象を受ける。
その建物の周りに、「やわらかい」世界として「こほろぎを聞く」時間と空間がある。
「こおろぎ」という闇を感じさせる季語とは対照的に、夜でも光のつまった図書館のイメージが現れる。
ただし、そこにはまだ「図書館」は存在しておらず、まだ外部(こおろぎを聴く空間)と内部(図書館)の空間は分けられていない。その設計図には、まるで「こほろぎを聴く」空間も書き込まれているのではないか、という気にさせられる。
そこにまだ存在しない図書館が「予定」されるだけで、その空間にさまざまな「意味」が与えられる。
「無」に対して「意味」を付与できるということ。それは「時間性」を基礎とする人間の重要な機能の一つなのだ。言うまでもなく「こほろぎを聴く」というのは作者自身だろう。「こほろぎ」を聴く、という<現実>に対して「図書館」という未来の時間を描き出す、ということは、それはもう世界そのものだということなのだ。


10/8
流星やバカと囁かれてみたい  上野葉月

作者が何か世界の核になる場所から、身をかわす、ということがひとつの態度だとすれば、「バカと囁かれてみたい」と、「バカではなく」かつ「バカでないわけでもない」位置に自身の主体を置く、ということにいったいどのような意味があるだろう。
あたかも中七下五によって作者は何か重要な問題から「身をかわし」たように見えなくもないが、実は「身をかわす」自分自身を見つめている、もうひとりの主体などは存在しない。
それは俳句形式の宿命のようなものである。
あたかも「バカと囁かれてみたい」と、問題のスポットライトの輪の外部へと逃れたように見えても、その外部もまた、俳句形式という存在論によって照らし出されてしまっているのだ。
皮肉にも「流星や」という季語が、この句を象徴的にしてしまっているのだが、なんど身をかわしても「私」は世界の中心に置かれてしまう、ということが宿命だとすれば、世界から「身をかわす」こともまたひとつの選択肢であると、言えないこともない。


10/22
踊り場の壁のかたさや星月夜   浜いぶき

「踊り場」ということばは、なにはともあれ踊る。踊って、踊って、踊りまくる。
もちろん「踊り場」とは階段の途中にある平らな場所のことに違いないのだが、そのような場所でも印象は「踊る」。
そのような、なにか賑やかな印象をうける「踊り場」の壁の「かたさ」、そしてその壁の向こう側にある「星月夜」。「陽気」な部分をとじこめてしまっているように感じるのは、既成の「俳句」という概念が持っている閉鎖的な「作法」のせいかも知れない。
重要なのは、その「踊り場」ということばの表層にある印象で、「それ」が「あれ」だという指示は二の次である。「踊り場」で踊り出すということ、馬鹿げて見えるかも知れないが、それこそが即ち、俳句で描くべきことじゃなかろうか。
ほんとうは「踊り場」と「星月夜」のあいだに「壁」はない。「かたい」も「やわらかい」もないと思うのだけれど。でもやっぱり「それ(踊り場)」は「あれ(階段の途中にある広い場所)」だから。…だからなのか!?
私たちにとって何が<現実>なのか。それは「それ」が「あれ」である以前に根源的に表面的な出来事であって、「ありえない」かつ「文脈で捉えきれない」意味がそこに存在する、ということだと思うのだけれど。
とはいえ、揚句を読んで、読んだ瞬間にこころは踊りだして、もうどうすることもできない。

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