2010年1月14日木曜日

バトル・ロワイアル・ストレート・フラッシュ   九堂夜想

「この本(『新撰21』)に登場する作家・評者の皆さんは、今まさに処刑台の前に立たされているのです」――年の瀬も押し迫った昨年末の「新撰21竟宴」において、図らずもそのように嘯いた心境が、〝狂宴〟を終え、あらたな年を迎えるに当たって、さらなる実感として強く胸中に蟠っている。作句信条はタブラ・ラサ、しかし「年寄りに冷や水を、若人には熱湯風呂を」を作家信条とする者としては先のコメントのぬるま湯加減にいささかの心残りが無いわけでもない。実際、この程度の印象はあの「竟宴」の場にいた多くの見者がすでに心中に抱いていたであろうからだ。

 小説/映画『バトル・ロワイアル』(略『B・R』)も現在となってはすでに〝懐メロ〟の部類だが、『新撰21』をパラ読みしてふといくつかの印象的なシークエンスが想い出された。別段、誰某がどの登場人物に似ているということではないが、およそ弱冠前後から不惑過ぎあたりまで一列に並ばされた『新撰21』収録メンバーが、意識する/しないに関わらず、或る闘いの場に投げ出されていることは間違いない。殊更、敵味方の区別や上下左右(編纂方、他の目には、左翼・右翼の違いがあるようだが、実はそんなものは無い)があるわけでもない。ましてや、善悪もない。ただ、今や『仮面ライダー』でさえ互いに裏切り殺し合う時代にあっては、如何なる切り結びが存在しても不思議ではない。顧みて、『新撰21』収録メンバーをあらためて眺めつつ、誰々が『B・R』の七原や中川、桐山や川田、千草、相馬に当て嵌まるなどと想像を逞しくするのはやはり一興である(となると、キタノに相応するのは編者の御三方ということになるだろうか。いや、これは妄想の話)。

「処刑台の前に立たされている」とは、端的に言えば、この度の『新撰21』各作品百句、或いは各作家論において、それぞれの書き手が〝可能性〟以上に〝限界〟を暴露しているということである。つまりは、見者たちによって各人の力量とその展望(〝滅び〟と言った方が分かりやすいか)が容易に見透かされているということだ。しかし、斯く言う当人も皆と同様、目隠しされ死の高台にある身なれば、これ以上多くは語るまい。結びにひとつ。『竟宴』での旧態依然とした俳句論議とサテリコンを超希釈したようなおチャラけた句会パーティの只中で、次のように意をあらたにしたものである――我(々)の当面の矛先は、我々の内外に巣食う〝ハイク・ゾンビ〟どもに向けられた、不可視の闘争である、と。

 と、いうわけで、この度、中村安伸氏のご依頼によりご挨拶がてら一筆書かせていただいた九堂夜想です。あらためて、新年とhaiku&meと『新撰21』関係者各位へ、一句――

日の果てをサーベルタイガーなど吼えよ   九堂夜想

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